えー、だいぶん前の記事にトラックバックを
いただいたようで。で、そのBlogを読んでて
ちょっと考えたことがあるので書いておきます。

 この記事のタイトルは「主語にみる当事者意識」
いうことで、どちらかといえば組織の責任問題が
取り上げられてます(ちなみに、トラバ先は
こちら)。これはもちろん正論だし、私自身も
この意識がないために失敗した例をいくつも見て
きてますが、ここで私が使っていた「当事者意識」
ということばは少し意味が違っているんですね。

 このときの記事での「当事者意識」というのは、
「その状況をその人と共有できる」という意味で
使っていました。たとえばこの記事で「本当に
東京に同規模あるいは震度7以上の地震が起きたら
どうなってしまうんだろう。」という記述が
あるんですが、このことばは「当事者」、つまり
地震の被害を受けた人にとっては非常に怒りを
覚えるだろうと思うんですね。確かにその心配を
する気持ちはわかるんだけど、そんな話はちゃんと
被害を把握し、ある程度復旧してからでも遅くは
ないんじゃないか、と。

 私がこういうことを考えるのは、10年ほど前に
起こった「阪神・淡路大震災」で全く同じ言葉を
聞き、全く同じことを感じたからです。あのとき、
まちが燃えている中で「もしこの地震が東京で…」
という言葉を聞いたときは耳を疑いましたし、
「その前にやることはいっぱいあるだろ!」と
叫んでましたから。

 本来的に、こんな状況で「当事者意識」を持つ
ことは「当事者」でもない限り不可能なのかも
しれません。でも、まだ被害の状況が不透明な中、
ちょっと「当事者」に対する配慮が欲しかったかな、
と思います。

 組織の中での「当事者意識」は当然ながら組織内
全員が「当事者」なわけでここに挙げるような
問題は基本的に発生しませんし、そこに「当事者意識」を
持たない人が入ると大変なことになります。でも、
それら「当事者」を「外野」からの視点で分析した場合、
「何も知らないくせに」というように「当事者」から
大きな反発が起こる可能性もあるんですよね。